IE9ピン留め

デジカメクラブ退会にあたって
# by dendenuta | 2011-07-21 15:14 | Comments(2)


白野江植物公園の紫陽花
 ①


 ②

                      あれ、UFO?
 ③

 ④

                      ネックレスみたい
 ⑤


 「七変化」とも云われるように、一つ一つの紫陽花の色は、微妙に違っていました。


 写真 短歌 コメント  並平
# by dendenuta | 2011-06-13 12:01 | Comments(6)


北九州文学散策 200(徳富蘇峰)
 徳富蘇峰漢詩碑(太宰府市宰府4丁目 太宰府天満宮参道)-昭和29年11月建立ー

 徳富蘇峰(とくとみそほう)。文久3年(1863)~昭和32年(1957)。熊本県生まれ。
本名猪一郎。徳富蘆花の兄。明治4年に、兼坂止水の私塾に入り、漢学を学びます。
 同8年、熊本洋学校に入学。同年7月、洋学校閉鎖のため、同志社にはいります。
同13年に退学、この頃から、新聞記者を志し、政治活動を行うようになります。
 同15年、大江塾を開きます。同19年に上京、翌年、民友社を興して「国民の友」
を発刊します。次いで「国民新聞」「「家庭雑誌」「英国民の友」などを次々創刊します。
初めの頃は、平民主義でしたが、日清戦争の頃から、国家主義的傾向に傾きました。

 山県有朋、桂太郎に接近。同44年、貴族院議員になります。桂の死後、政治から
身を退き、著述に專念します。満州事変からは、積極的に軍部に協力、第二次世界
大戦中は、日本文学報告会、大日本言論報告会の会長を務めました。「近世日本
国民史」全百巻があります。
 昭和18年、文化勲章受賞。戦犯として昭和21年2月から、昭和24年4月まで、
公職から追放されました。昭和29年、水俣の名誉市民に推されています。

 (文の意味)
菅原家から、道真公という人物が出て、右大臣に抜擢された。宇多上皇や醍醐天皇
の御厚情によるもので、そのご恩に感謝して、身命を投げ打ってお勤めに励んだ。
 このことが、思いがけず讒言され、無実の罪で、太宰権師(だざいのごんのそつ)
におとされた。その悲しみに心が痛むときは、いつも、ひまわりの花が太陽の方を向
いて回るように、青空を仰ぎ、宇多上皇や醍醐天皇のお情けを思い出して慕った。
 今でも、天満宮は、全国各地にあって拝まれているが、その天皇に対する純粋な
誠の心は、いつの世までも、手本とすべきである。


 昭和27年天満宮の第38代宮司西高次信貞(昭和62年没・道真の子孫)は、熱海
に蘇峰を訪ね、1050年祭を記念して、境内に菅公を顕彰する蘇峰の詩碑を建てたい
と申し入れました。自ら菅公の子孫と称していた蘇峰は、感激して承諾しました。
 完成したのは、昭和29年11月でした。


 皆様方の暖かい励ましのコメントに支えられて、北九州文学散策は、200回の回を
重ねることが出来ました。当たり前のことながら、これもブログのコメント欄があったれ
ばこその結果でした。ここに、心からお礼の言葉を申し上げます。
 最終回は、良くも悪くも知名度の高い徳富蘇峰を取り上げました。漢詩という難解な
文学碑はこのシリーズでは初めてでした。私にとっても原稿を書き終えるまで、苦労
の連続でしたが、何とか皆様にお見せできるものが出来上がりました。
 次回、太宰府天満宮に参拝された折にこの碑を見かけたら、近寄って、詩を読んで
いただけるとうれしく思います。

 この200回を区切りとして、本シリーズは一応打ち切りとさせていただきますが、いい
文学碑を、今後発見した際には、散発的に、投稿することがあるかもしれません。
 最後に、旅先で、文学碑を発見し、おみやげに持ち帰って下さったかなさん、うーみん
さんに感謝の意を表します。


 写真 短歌 コメント  並平
# by dendenuta | 2011-06-06 20:18 | Comments(12)


デジカメクラブ野外撮影会
 6月1日、若松グリーンパークで、野外撮影会を実施いたしました。
心配していたお天気も、杞憂に終わり、安堵しました。
 参加者は24名で、これまでで、最も多かったのではないでしょうか。
 ただ、数日前の長雨で、花の大半が痛んでおり、皆さん、苦労していた
ようでしたね。私も、いい花が、なかなか見つからず、大変でした。

 ①

 ②

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 ⑩





 写真 短歌 コメント  並平
# by dendenuta | 2011-06-02 12:24 | Comments(12)


北九州文学散策 199(藤田きよし)
 藤田きよし川柳碑(太宰府市宰府4-7ー1 太宰府天満宮菖蒲池畔)
                                   ー昭和41年11月建立ー

 藤田きよし。明治41年(1908)~平成7年(1995)。本名潔。
 昭和10年に、番傘系の越智伽藍(がらん)の指導を受け、釜山にて竜頭吟社(のち
釜山川柳界)に参加。常任幹事を務めました。

昭和23年に、大宰府川柳吟社を創設。銅27年、福岡川柳倶楽部同人。銅28年には
番傘川柳者同人になりますが、同30年に退会します。同35年、福岡川柳倶楽部会
長に就任します。

 福岡川柳協会副会長。句集に、「風雪」「花は白」「ふり向けば」などがあります。
 きよしは、短歌も詠んでおり、歌集に、「さすかた」「思い川」があります。短歌部門で、
福岡市文学賞を受賞しています。

 この句碑は、きよしの還暦記念に、福岡川柳倶楽部によって建てられたものです。
書は自筆です。

 都府楼跡に立ち、礎石を眺めている時、歴史上数々の、繰り返されたであろう興亡
が実感として湧き上がってくる気持ちを詠んだものと思われます。
 「礎石」とは、都府楼跡の、永い年月を風雪にさらされた礎石のことです。また、「きりぎ
りす」は、こおろぎのことです。

 高浜年尾の句碑が、菖蒲池に建っていました。

 福岡川柳倶楽部では、太宰府天満宮で、川柳大会を開催していますが、これに合わ
せて、春、秋二回、この碑の前で、句碑祭りも行われているそうです。

 写真 短歌 コメント  並平
# by dendenuta | 2011-05-27 12:44 | Comments(2)


北九州文学散策 198(安武九馬)
 安武九馬川柳碑(太宰府市観世音寺5-6 観世音寺)   -昭和44年9月建立ー

 安武九馬。昭和39年(1906)~平成5年(1993)。博多生まれ。本名孝一。
昭和3年4月に、井上剣花坊選の「九州日報柳壇」に初めて投稿作品が掲載されました。
同年7月から、「番傘」に投句を続け、同年10月には同人に推挙されました。同39年に、
番傘川柳本社の九州総局長に就任します。

 「朝日新聞」その他で、川柳の選者を務めました。句集を出さない主義でしたが、
全九州番傘川柳大会が閉幕する第20回福岡大会を記念して、安武九馬抄「まほら」
を、昭和59年に出版しました。

 「まほろばの鐘天平の雲をよび」
まほろばとは、「すぐれたよい所」という意味で、観世音寺の国宝の鐘の音を称えた句
です。
 国宝の天空に響く鐘の余韻を聴きながら、鐘が鋳造された白鳳期(7世紀後半~
8世紀初めで、天平時代が含まれます。)に想いを馳せているのでしょうか。
 九馬句碑祭りが、9月に「まほろば忌」として行われています。

 九馬は、仏像との出会いから川柳を始め、各地の古刹・仏像を訪ね歩きました。
観世音寺の梵鐘を詠んだこの句も、そのような古寺巡礼の一つだったのでしょう。

 この色紙は、ひめゆりが、九馬本人の講演を聞いた時に、九馬からもらったもの
です。

 「この鐘はこう撞かはれと方広寺」
 「父の血を引いたあかしの握り箸」
 「大仰な怒り馬頭のかえり花」
 「博物館やはり野におけ仏さま」
 「人は会い別れるさだめ花の寺」
 「べからずの鐘一つ撞き古寺巡り」
 「黒田節こがねのみずのあるかぎり」

 写真 短歌 コメント  並平

 
# by dendenuta | 2011-05-12 22:30 | Comments(2)


北九州文学散策 197(荻原井泉水)
 荻原井泉水句碑(太宰府市宰府4丁目 太宰府天満宮)   -昭和42年5月建立ー

 荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)。明治17年(1884)~昭和51年(1976)。
 東京生まれ。本名藤吉。東京帝大文学部卒。麻布中学時代に、俳句を始め、尾崎
紅葉選の「読売新聞俳句欄」などに投稿。高校在学中に、一高俳句会を起こします。
 また、正岡子規の句風に傾倒。子規没後の子規庵句会にも出席。やがて河東碧
梧桐の新傾向俳句運動に共鳴して参加します。

 明治44年に、碧梧桐一門の機関紙「層雲」を創刊します。
 大正期に入ると、季題は無用として、自由律俳句運動を標榜。新傾向俳句運動の
なかで、最も先鋭的な運動を展開し、見解の異なる碧梧桐との間に論争が起き、大
正2年に、碧梧桐とたもとを分かちます。その後は、井泉水中心の俳句革新の道を
進み、尾崎放哉や種田山頭火らの逸材を育てました。昭和30年、昭和女子大の
教授となります。また、昭和40年、日本芸術院会員になります。
 昭和51年5月に、91歳の生涯を閉じました。
 代表句集に、「原泉」「長流」「大江」があります。

 この句碑は、高さ3.3メートル、幅1,4メートルの筑紫耶馬渓産の玄武岩(重さ
10トン)に豪快な筆蹟(井泉水の自筆)で句が刻まれています。
 国の天然記念物に指定されている樹齢千年を超す大樟を詠んだ句に相応しい姿
に見えます。

 「千年の樹齢を持つくすの木が、今年も更にみずみずしい若葉を茂らせている。」
 くすの木の生命力に対する驚きが印象深く歌いあげられています。
 
 井泉水の句碑は、九州では、今のところここにだけしか見当たりません。井泉水は、
度々九州を訪れています。大宰府へもその都度足を運びました。この句は、井泉水
82歳の句です。

 空をあゆむ朗々と月ひとり
 落葉の、これでも路であることは橋があって
 枯野に大きなひまわりの花、そこに停車する
 尼さま合掌してさようならしてひぐらし
 この水年暮るる海へ行く水の音かな
 ぶどうむらさき写しおるにぶどうの赤き酒をつぐ
 どちら見ても山頭火が歩いた山の秋の雲
 つばきは一輪さすもので山にいっぱい

 これ等の井泉水の句を見て、皆さんはどのような印象をお持ちになるでしょうか。

 写真 短歌 コメント  並平
 
# by dendenuta | 2011-04-27 23:12 | Comments(2)


北九州文学散策 196(月照上人)
 月照上人歌碑(太宰府市宰府2丁目6-12 松屋)    -平成2年6月建立ー

 西鉄電車の大宰府駅から天満宮へ至る参道の南側の店の2軒目が、みやげ物店
「松屋」です。奥の喫茶コーナーの裏庭に歌碑が建っていました。松屋で注文したあ
ずきアイスはとても美味でした。

 月照上人。江戸期の僧侶、歌人。名は玉井宗久。文化10年(1813)~安政5年
(1858)。大阪の町医者の家に生まれます。文政10年(1827)、出家して京都清水
寺成就院に入り、天保6年(1835)に住職となりました。近衛忠熙(ただひろ)に和歌
を学びます。これを契機にして、勤皇の志を抱き、国事に奔走します。しかし、安政の
大獄に際して、幕府により追放されます。

 捕縛の危機が迫ったので、安政5年9月、従僕重助を伴い、京都を脱出、西郷隆盛
を頼って、薩摩に向かい、西下の途中、10月に博多着、大宰府で、松屋に数回宿泊
しました。

 松屋の主、孫兵衛は、福岡や薩摩、長州の志士らと広く親交を結び、商人ながら
勤皇の志を持ち、月照上人の薩摩くだりの事情についても、知っていたので、歓待
し、大宰府見物にも案内しました、

 この歌は、月照上人が、孫兵衛に対して、お礼の気持ちを詠んだ歌です。
 松屋は、その後、代々この歌を、家宝として受け継いできたそうです。

 西郷隆盛は、月照上人と別行動をとり、薩摩藩に月照隠匿を承認させるために、単
身帰藩していました。しかし、斉彬の死後、幕府の圧力に抗しきれず、藩の重臣達は、
月照の隠匿を承認しませんでした。
 筑前博多で、福岡藩の足軽で勤皇の志の篤い平野國臣が、月照と合流し、数々の
困難を乗り越えて、一行は、何とか薩摩領内に入り、存龍院まで辿り着きますが、存
龍院は、すぐ、藩庁に報告してしまいます。藩庁は、月照を日向の国境へ、「永送り」
することにしました。「永送り」とは、国境で、斬り捨てるということです。

 西郷は、近衛家から、奈良に送るように頼まれたのに、薩摩まで連れて来て、殺させ
る結果になった責任をとろうと遂に死を決し、共に死のうと船で錦江湾に出ます。
 船には、月照と重助、隆盛、平野國臣が乗っていました。西郷は、月照を抱き抱える
ようにして、海に身を投げたのです。國臣は、驚いて二人を助け上げたのですが、蘇生
したのは、西郷だけでした。西郷が助かったのは、ひとえに國臣の熱心な捜索と看病
のお陰でした。この事件のあとも、國臣と西郷は、深い交流を続けていきます。

 薩摩藩は、表向きは西郷も共に死んだことにして幕府に届け、その後、西郷は名を
菊池源吾と改名して、奄美大島に身を潜めました。
 月照は、「大君のためには何か惜しからん 薩摩の迫戸(せと)に身は沈むとも」
 「曇りなき心の月も薩摩潟 沖の波間にやがて入りぬる」という辞世の歌を詠んでいま
す。46歳の生涯でした。

 月照の死を知った松屋の孫兵衛は悲嘆に暮れたそうです。

 写真 短歌 コメント  並平
# by dendenuta | 2011-03-16 23:27 | Comments(4)


北九州文学散策 195(菅原道真)
 菅原道真歌碑(太宰府市宰府4丁目太宰府天満宮)    -昭和23年5月建立ー

 菅原道真。平安時代の公家、政治家、文人、学者。承和12年(845)~延喜3年(903)。
菅原氏の出自は土師氏。土師氏は、奈良の古代豪族で、その祖は野見宿禰で、土師氏は
桓武天皇に姓を与えられ、大江氏、菅原氏、秋篠氏に別れました。菅原氏は、道真の曽祖
父の時代から、文道で朝廷に仕える家柄となりました。

 道真の母は大伴氏。幼い頃から文才に優れ、向学心も旺盛で、23才で文章(もんじょう)
博士になります。

 しかし、優れた才能への中傷や政略の渦に巻き込まれ、42歳の時に讃岐守に転出しま
したが、4年の任期を終え、中央に復帰し、急テンポの躍進を遂げ、51才で、遣唐大使に
なりました。しかし、派遣は中止されました。
 51才で、中納言。55歳で右大臣に栄進します。

 ところが、そこで、政治的な暗闘、学閥の抗争の黒い渦に巻き込まれてしまいます。
 道真の異例な出世が、権力者藤原氏の鼻につき、延喜元年(901)、藤原時平の讒言
により失脚。大宰府へと左遷されてしまいます。

 都を去る時、庭の紅梅を見ながら、詠んだのがこの歌です。
「東風が吹いたら匂いを配所の私の許に寄越しておくれ、梅の花よ。
 主人が居ないからといって春であることを忘れるなよ。」という意味です。

 この歌の碑は、西鉄大宰府駅にも、他の3人の歌と共に、建てられていました。
 道真の愛した梅が、主を慕って一夜にして京都から大宰府に飛んできたという「飛び梅」
の伝説は有名ですね。

 道真は、大宰府に赴任して2年後の延喜3年2月25日に無念の思いを残しつつ、59
歳の生涯を閉じました。
 道真が亡くなった頃から、都では、天変地異が続きます。道真を讒言した藤原時平が
39才で急逝。疫病がはやり、日照りが続き、20年後には、醍醐天皇の皇太子が死亡。
次の皇太子も数年後に死亡します。人々は、全て菅公の怨霊の祟りとして恐れました。

 怨霊を鎮めるために、947年に、北野天満宮が創建されました。

 江戸時代初期から、道真は、学問、文筆の神として崇められるようになり、寺子屋に
は必ず、天神様の尊像が掲げられていたそうです。

 「つくしにも紫生ふる野辺はあれど
  都へいざといふ人ぞなき」
 「かりがねの秋なくことはことわりぞ
  帰る春さえなにか悲しき」
 「足曳きのあなたこなたに道はあれど
  都へいざといふ人ぞなき」
 「夕されば野にも山にも立つけぶり
  なげきよりこそ燃えはじめけり」
 「谷深み春の光のおそければ
  雪につつめる鶯の声」

 本稿を投稿した2月25日は、奇しくも道真公の命日にあたります。

 写真 短歌 コメント  並平
# by dendenuta | 2011-02-25 00:00 | Comments(8)


北九州文学散策 194(宮沢賢治)
 宮沢賢治歌碑(岩手県宮古市浄土ケ浜)           ー平成8年8月建立ー
            
 宮沢賢治。明治29年(1896)~昭和8年(1933)。詩人、童話作家の他に、農芸
化学者、農村指導者、宗教思想家でもありました。
 明治29年、岩手県花巻市に生まれました。少年時代は、植物採集や鉱物採集に
熱中。盛岡中学(現盛岡第一高等学校)に入学。2年生の頃から、短歌を作り始め
ました。大正3年、盛岡高等農林学校(現岩手大農学部)に入学。在学中に、学内
同人誌「アザリア」に、短歌や散文を発表しています。

 1918年に同校卒業。童話を書き始めます。1920年に、突然上京。本郷菊坂町
に下宿して、筆耕をしながら童話を多作。しかし、妹トシ子の病気のため帰郷。賢治
のよき理解者であり、教師をしていたトシ子が肺結核のため亡くなった時は、押入れ
に首をつっこみ、一晩中号泣したそうです。

 その後、花巻農学校(現花巻農業高等学校)の教諭となり、4年余教壇に立ちまし
た。この間、地元の新聞や同人誌に詩や童話を発表しました。
 1924年に、詩集「春と修羅」、童話集「注文の多い料理店」を刊行します。
 1926年3月、農学校を退職、下根子櫻(しもねこさくら)に独居自炊して開墾。
青年達を集めて羅須地人協会(らすちじんきょうかい)を作り、農芸化学や農民芸術
論を講じたり、レコード観賞、合奏練習などの文化活動を開始します。しかし、官憲
に睨まれたり、自身の病気のため、活動は挫折します。

 1931年(昭和6年)頃、東北砕石工場技師となり、石灰肥料の宣伝販売に従事し
ますが、無理がたたり、昭和8年9月に急性肺炎のため、37歳の生涯を閉じました。

 晩年は、詩や童話の旧作の推敲や改作に没頭。多くの文語詩を書きました。

 詩人の草野心平や高村光太郎の尽力により、彼の人と作品は、世に知られるよう
になりました。
 童話の「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」や詩の「永訣の朝」「雨ニモマケズ」はよく
知られています。
 花巻市に、宮沢賢治記念館があります。

 有名な「雨ニモマケズ~」の詩は、手帖にメモされていたもので、彼の死後発見さ
れました。この詩の中で、「みんなにデクノボーと呼ばれ」と記されているデクノボー
のモデルについてですが、私は、斉藤宗次郎という人ではないかと考えています。
 教師をしながら、日露戦争に反対の主張をしたため、岩手県の教育界から追放
されたクリスチャン(内村鑑三の弟子)斉藤宗次郎。彼は、その後、新聞配達をし
ながら、布教を続けました。彼は、病気の子どもがあれば飛んで行って看病し、貧
しい人の面倒もみました。賢治は、花巻農業学校に勤めていた時彼と知り合い、
心の交流が続けられました。

 1996年に、新藤兼人の脚本で、映画が製作されました。「宮沢賢治ーその愛ー」
です。主演の宮沢賢治は三上博史が、賢治の両親を仲代達矢と八千草薫が演じ
ました。

 この歌碑に彫られた歌は、大正6年に、賢治が浄土ケ浜を訪れた時に詠んだ歌で、
平成8年8月に、宮古市によって建立されたものです。


現在、NHK12チャンネルで、毎週水曜日に放映されている「こだわり人物伝」で、
たまたま宮沢賢治がとりあげられています。次回は2回目ですが、1月12日午後
10時25分からです。4回シリーズです。関心のある方はご覧下さい。

 歌碑の写真 かなさん
 浄土ケ浜の地図と奇岩 宮古市ホームページより
 その他の写真と短歌、コメント  並平
 
# by dendenuta | 2011-01-09 16:05 | Comments(16)

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