宮沢賢治歌碑(岩手県宮古市浄土ケ浜) ー平成8年8月建立ー
宮沢賢治。明治29年(1896)~昭和8年(1933)。詩人、童話作家の他に、農芸
化学者、農村指導者、宗教思想家でもありました。
明治29年、岩手県花巻市に生まれました。少年時代は、植物採集や鉱物採集に
熱中。盛岡中学(現盛岡第一高等学校)に入学。2年生の頃から、短歌を作り始め
ました。大正3年、盛岡高等農林学校(現岩手大農学部)に入学。在学中に、学内
同人誌「アザリア」に、短歌や散文を発表しています。

1918年に同校卒業。童話を書き始めます。1920年に、突然上京。本郷菊坂町
に下宿して、筆耕をしながら童話を多作。しかし、妹トシ子の病気のため帰郷。賢治
のよき理解者であり、教師をしていたトシ子が肺結核のため亡くなった時は、押入れ
に首をつっこみ、一晩中号泣したそうです。

その後、花巻農学校(現花巻農業高等学校)の教諭となり、4年余教壇に立ちまし
た。この間、地元の新聞や同人誌に詩や童話を発表しました。
1924年に、詩集「春と修羅」、童話集「注文の多い料理店」を刊行します。

1926年3月、農学校を退職、下根子櫻(しもねこさくら)に独居自炊して開墾。
青年達を集めて羅須地人協会(らすちじんきょうかい)を作り、農芸化学や農民芸術
論を講じたり、レコード観賞、合奏練習などの文化活動を開始します。しかし、官憲
に睨まれたり、自身の病気のため、活動は挫折します。

1931年(昭和6年)頃、東北砕石工場技師となり、石灰肥料の宣伝販売に従事し
ますが、無理がたたり、昭和8年9月に急性肺炎のため、37歳の生涯を閉じました。

晩年は、詩や童話の旧作の推敲や改作に没頭。多くの文語詩を書きました。
詩人の草野心平や高村光太郎の尽力により、彼の人と作品は、世に知られるよう
になりました。
童話の「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」や詩の「永訣の朝」「雨ニモマケズ」はよく
知られています。
花巻市に、宮沢賢治記念館があります。

有名な「雨ニモマケズ~」の詩は、手帖にメモされていたもので、彼の死後発見さ
れました。この詩の中で、「みんなにデクノボーと呼ばれ」と記されているデクノボー
のモデルについてですが、私は、斉藤宗次郎という人ではないかと考えています。
教師をしながら、日露戦争に反対の主張をしたため、岩手県の教育界から追放
されたクリスチャン(内村鑑三の弟子)斉藤宗次郎。彼は、その後、新聞配達をし
ながら、布教を続けました。彼は、病気の子どもがあれば飛んで行って看病し、貧
しい人の面倒もみました。賢治は、花巻農業学校に勤めていた時彼と知り合い、
心の交流が続けられました。

1996年に、新藤兼人の脚本で、映画が製作されました。「宮沢賢治ーその愛ー」
です。主演の宮沢賢治は三上博史が、賢治の両親を仲代達矢と八千草薫が演じ
ました。

この歌碑に彫られた歌は、大正6年に、賢治が浄土ケ浜を訪れた時に詠んだ歌で、
平成8年8月に、宮古市によって建立されたものです。
現在、NHK12チャンネルで、毎週水曜日に放映されている「こだわり人物伝」で、
たまたま宮沢賢治がとりあげられています。次回は2回目ですが、1月12日午後
10時25分からです。4回シリーズです。関心のある方はご覧下さい。
歌碑の写真 かなさん
浄土ケ浜の地図と奇岩 宮古市ホームページより
その他の写真と短歌、コメント 並平