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北九州文学散策 192(沢庵和尚)

 沢庵和尚の歌(兵庫県豊岡市出石町東條 宗鏡寺)
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 沢庵和尚。江戸時代の臨済宗の名僧。天正元年(1573)~正保2年(1646)。
たくあん漬けの考案者とも言われています。豊岡市出石(いずし)町に生まれました。
 父は、出石城主山名祐豊の重臣秋場能登守綱豊。8歳の時、山名家は、羽柴秀吉
に攻められ滅亡。父は、浪人となります。
 10歳の時、出石の唱念寺で出家し、14歳の時、出石藩主の菩提寺宗鏡寺(すきょ
うじ)-沢庵寺ともいうーに入りました。
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 22歳の時、京都の大徳寺に入り、29才の時、首座にまで出世しました。しかし、
彼は、何を思ったのか、その3日目に大徳寺を去って堺に移ります。31歳の時、堺
の南宗寺に入り、やがて住職になります。
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 48歳になって、「富貴を求め、人にへつらい、仏法を売るより、野僧たるべし」と、郷
里の出石に戻り、宗鏡寺の裏に庵をたて、「投淵軒(とうえんけん)」と名付けました。
 そして、世間と離れ、静かな暮らしに入りました。
 彼は、漢文にも秀で但馬にも、多くの歌を残しています。
  「めぐり来て入佐の山の月も日も 
        はるやむかしに我身ひとつは」
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 寛永4年(1627)、有名な紫衣(しえ)事件がおこります。江戸幕府が成立してから、
寺院法度などにより、寺社への締め付けがひどくなり、特に、大徳寺のような有力な
寺院に対しては、朝廷との関係を弱めるための規制がかけられました。例えば、従来
天皇の詔で決まっていた、大徳寺の住職を幕府が決めるとされ、また、天皇から賜る
紫衣の着用は、幕府が認めた者に限るとされました。

 寛永4年、幕府は、後水尾天皇が幕府に諮ることなく行った紫衣着用の勅許を無効
として、京都の所司代に紫衣取り上げを命じたのです。怒った沢庵は、急遽上京し、大
徳寺の僧をまとめ、反対運動を行いました。
 寛永6年、幕府は、沢庵を出羽の国上山に流罪にします。上山藩主の土岐頼行は、
流されてきた名僧沢庵の権力に屈しない生き方に打たれ、歌人でもあった沢庵に、草
庵を贈りました。
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 寛永9年、将軍秀忠の死により、大赦令が出され、沢庵は、許されます。4代将軍家
光は、沢庵の人柄に打たれ、深く沢庵に帰依します。寛永12年、家光に懇願され、
江戸にくだります。家光は、東海寺を創建し、沢庵を住職にします。
 正保2年(1646)、沢庵は、73歳で江戸で没しました。
 彼の遺言は、「葬式は出すな。香典はもらうな。死骸は裏山に埋めて二度と参るな。
墓は作るな。法事はするな。」というものでした。
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 吉川英治原作の「宮本武蔵」には、沢庵が登場しています。沢庵により武蔵が、木に
吊るされているシーンを思い出す人も居るでしょう。この映画では、武蔵を中村錦之助、
沢庵を三国連太郎が演じています。
 しかし、史実では、沢庵と武蔵の間に接点はなく、あくまでも吉川英治の創作です。

 *宗鏡寺ー臨済宗大徳寺派の寺院。通称沢庵寺。元中9年(1392)、山名氏の菩
提寺として入佐山(出石の山)の麓に創建されました。山名氏が滅亡した後、永らく荒
廃していましたが、出石城主小出吉英の勧めにより、元和元年(1616)、沢庵が再興
しました。沢庵は、通算で、30年以上を当寺で過ごしています。

 沢庵の歌の書の写真 かなさん
 その他の写真 短歌  並平

by dendenuta | 2010-11-08 22:33
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by dendenuta
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